AppleInsider: Apple タブレットへの系譜: タブレットコンピューティングの歴史

原文: The inside track on Apple's tablet: a history of tablet computing

By Prince McLean
Published: Friday, January 15, 2010 07:45 AM EST
期待されている今月下旬の Apple によるプレスイベントでは、同社の MaciPodiPhone 製品ラインの兄弟分として、タブレットサイズの新しいデバイスがデビューするものと広く予測されている。 ここでは、その登場につながる系譜や、なぜこれまで未来的なタブレットが普及しなかったのかをみていこう。
Apple から登場するとウォッチャーが期待している、この新しい「iSlate」あるいは、もしかすると「iBook」製品は、iPhone のようなマルチタッチを基盤にした新しいグラフィカルインターフェースをまとい、iPhoneiPod touch のようなポケットサイズのフォームファクターと AppleMac ラインのような 13 インチノートブックとの間にフィットするものと考えられている。
さまざまなベンダーが、過去 20 年間にわたってタブレット型の製品を送り出そうとしてきたものの、どれも際立った成功を収められないできた。 このことが、デスクトップやノートブック、MP3 プレーヤー、携帯電話にしてきたのと同じように、Apple はその魅力的なオーラをタブレット分野にも振りまくことができるのだろうか、とテクノロジー業界の誰もが息を殺して見守ることになっている。
ハードウェアテクノロジーにおける新たな進展や、そうしたデバイスでユーザーの関心をサポートできるようなソフトウェア市場に火をつけたプラットフォームの進化を勘案しつつ、過去のタブレット製品の歴史を見てみると、なぜこれまで離陸できなかったのかということと共に、今年はどのような新しい可能性を持ちうるのか、という手がかりがいくつか見えてくる。

初期のタブレットのアイデア: 1968 〜 1982 年
ハンドヘルドコンピューティングというコンセプトは、Alan Kay が他の大学院生らに出会って、自らの FLEX Machine システムをデモンストレーションした、60 年代後半にはじまった。 Kay はそのイベントで、動作するフラットパネルディスプレイをはじめて目にしたが、このテクノロジーがいずれかの時点で、フラットパネルディスプレイにパーソナルコンピュータ(これ自体がすでに革新的なアイデア)を埋め込んだ、ひじょうに個人的なモバイルデバイスになるというアイデアへと発展していった。
Kay のアイデアは、初等教育におけるツールとしてコンピュータをプロモーションするという自らの興味も相まって、ダイナミックな書籍としてだけでなく、個人とコンピュータとの関わりを一変させてしまうような製品ビジョンとして「Dynabook」という結果になった。 Kay はもともと、キーボードとメガピクセルディスプレイからなる 2 ポンドほどのデバイスを思い描いていた。
1970 年、Kay は自らのアイデアXerox PARC に取り込み、Kay が「interim Dynabook」と呼ぶデスクトップ Alto プロトタイプへと変身させた。 Xerox Alto は、マウスベースのグラフィカルコンピューティングに関連した Douglas Engelbart の先駆的なコンセプトなど、さまざまな素晴らしいアイデアを取り込んでコンピューティングの技術を飛躍的に向上させた。 Xerox での先進的な研究は、Apple の Lisa や Macintosh プロジェクトにも影響を及ぼし、研究所からメインストリームのユーザーへと、直感的なデスクトップコンピューティングというアイデアをもたらした。

ノートブック時代のタブレット: 1982 〜 1991 年
Alto によってデモンストレーションされたテクノロジーを、Dynabook サイズのタブレットに取り込むという目標は、80 年代全般にわたって未来的なビジョンのままだった。 さまざまな PC 企業が、新しいポータブルパーソナルコンピュータのデザインを市場に登場させた。それらは、AC 電源が必要なスーツケースサイズのラガブルにはじまり、バッテリー駆動の先駆的なハンドヘルドシステム、そしてますます薄く軽くなっていくノートブックに及んだ。これらはいずれも、テキストが主流の DOS コンピュータだった。 利用可能なテクノロジーで実現できたタブレットに最も近いものは、フルキーボードがほとんどを占め、わずか数行のテキストしか表示できない小さな LCD 表示装置がついたハンドヘルドシステムだった。
1979 年に Xerox の幹部 John Ellenby と Apple の Dave Paulsen によって設立された GRiD は、1982 年に初めての商業ノートブックコンピュータとして Compass を導入した。それは、320x200 ディスプレイを備え、キーボードを覆うように畳むことができるヒンジ型のものだった。 コストは 8,150 ドル、今日の価値に換算すると、およそ 17,900 ドルだった。 GRiD のポータブルコンピューティング製品は、企業幹部だけでなく、政府の国防および諜報グループの注意をひいた。さらには、NASACompass を定期的に宇宙へと持っていった。
Apple は 1989 年になるまで、自社のグラフィカルな Mac Portable を市場に送り出さなかった。 その頃になると、DOS PC ノートブックのベンダーらが、主にテキストベースのコンピューティングのために設計された優れたラインアップ(Toshiba は Kay のオリジナルのアイデアに敬意を表して、自社の PC ノートブックに「Dynabook」とのブランド名さえ与えていた)を送り出すようになってきており、そのうちの 2 社(含 Outbound)は、引退した Apple コンピュータからの ROM チップを利用してグラフィカルな Macintosh オペレーティングシステムを実行するポータブルシステムを立ち上げさえした。
この従来型のノートブックデザインは、タブレットサイズのシステムよりも人気だった。それはたんに、ノートブックが、可搬性、コンピューティングのパワー、画面の品質において、もっとも理想的なバランスを提供できていたからだった。 AppleMac Portable で初めてモバイルコンピューティングへと打って出た際、そのグラフィカルコンピューティング環境をサポートできるような高い処理能力と高品位な 640x400 ディスプレイを詰め込む必要性から、非常に高額なものだった。 しかし、1991 年になると AppleSony とチームを組み、自社のモバイル MacPowerBook と呼ばれる薄いノートブック型のフォームファクターへと縮ませることに成功した。 この新しいモデルは、キーボードをヒンジ側によせ、画面上のウィンドウをナビゲートするためのトラックボールを備えたパームレストのための空間を確保していた。これは、以降のほぼすべてのノートブックメーカーが模倣することになった。
その次の 10 年間にわたって Apple は、トップのノートブックメーカーとしてのポジションをリードしたものの、同社の見通しが怪しくなってくるにつれて落ち込んでいった。 同時に Apple は、デスクトップとノートブックユーザーのコンパニオンとして販売するために、よりポータブルなデバイスを開発しはじめた。 それが Newton Message Pad だった。

ページ 2 / 3: タブレットの新しい波、Apple の Newton。

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