AppleInsider: Mac OS X Leopard Server に向かって: コラボレーション情報共有サービス

Mac OS X Leopard Server に向かって: コラボレーション情報共有サービス

By Prince McLean

Published: Monday, October 22, 2007 09:00 AM EST


Leopard には、個人ユーザのための Mac デスクトップのパフォーマンスおよび利便性を優れたものにし、併せてオフィス環境においてネットワーク化されたマシーンのために新しいコラボレーションサーバ機能を提供するために、隠れた部分およびそのユーザーインターフェースの両面で一連の変更が施されている。 そして今や、サーバおよび共有サービスも家庭へと進出しつつある。そこで、ここでは、ファイル共有およびコラボレーション用情報サービス、そして Mac OS X 内部での設計は何が起源となっているのかに関連して、Leopard および Leopard Server の新機能を見ていこう。


このレポートは、サーバの起源、歴史、そして成熟の過程にかなりのスペースを割いている。 時間のない人、あるいは Leopard Server で予定されている機能に興味のある人は、本レポートの ページ 3 へとジャンプされたい。


サーバの起源

コンピュータが部屋ほどの大きさだった時代、ユーザはコンピュータ間でファイルを共有するようなことはしなかった。彼らはコンピュータそのものを共有していたのだ。 60 年代半ば、General Electric と AT&T Bell Labs は MIT と共同で Multiplexed Information and Computing Service、略して Multics と呼ばれる時間共有コンピュータシステムの開発を開始した。 その目標は、複数のユーザが同時にひとつの高価なシステムを共有できるようなオペレーティングシステムを作成することだった。

それは結局、プロジェクトが当初目指したいたほどのユーザ数をサポートできず、Multics を走らせていた GE のコンピュータのランニングコストが非現実的なまでにかさんだため、Multics が商業的に非現実的なものになってしまうという事態になってしまった。 Ken Thompson は同システムのために Space Travel というゲームを書いたものの、CPU 時間で 75 ドルというランニングコストがかかった。 そのため 1969 年までに AT&TMultics プロジェクトから手を引くことを決定した。

Thompson と Multics の開発をしていたチームには、Dennis Ritchie、Doug McIlroy、そして J. F. Ossanna らがいたが、彼らは、開発を継続できるようなコンピュータを要求した。しかし経営陣らは Multics と同じような失敗プロジェクトになりかねないものに投資することに及び腰だった。 しかし、開発者らはなんとか Digital が提供する PDP-7 ミニコンピュータを手にすることができた。このシステムは当時およそ 72,000 ドルで、手頃な値段のシステムだと考えられていた。

Thompson は自身の Multics Space Travel ゲームを移植して、この新しいシステムで実行できるようにし、それをサポートするための基盤となるシステムソフトウェアを開発した。 これらシステムユーティリティは、Multics の骨抜き版をあらわす言葉遊びとして「Unics」と呼ばれるようになった。 これは後に Unix と綴られるようになった。 同システムは、AT&T 内部で商業的に便利であることが明らかになり、Thompson と彼のグループは Ritchie に率いられて、後により魅力的な PDP-11 ミニコンピュータ (下図:Thompson が座っている傍らに Ritchie が立っている) を手に入れて開発を継続することになった。


Leopard Server


Unix がうまくいった訳

初期の PDP-7 システム上で、Thompson はそれまでの BCPL をベースに B と呼ばれるプログラミング言語を開発した。 さらに彼は、新しい PDP-11 用に、UNIX の上層レイヤーが他のシステム上で再利用できるように、ソフトウェアを実行するハードウェアから抜き出せるように設計された新しいシステム言語を書き上げた。 この「新 B」は C と名付けられ、Thompson は C で Unix を書き直す作業に取りかかった。

AT&TUnix 開発者らは、コンポーネントを明確で把握可能な機能へと整理したシステムを支える設計思想を発展させた。 単純な機能はまとめてパイプされて、複雑なワークフローを形作った。 Ritchie そして後に McIlroy もまた、詳細で恐ろしいまでに正直で、システムの欠陥さえもはっきりと解説した Unix のための膨大な資料をまとめあげた。 これは、機能がどのように動作するのかを解説し、コマンドの使い方の例を多く提供し、既知のバグについてさえ注記されている Unix のオンラインマニュアル、man として生き残る。

1976 年 Thompson は長期休暇を取って、University of California-Berkeley の Computer Science Department で教鞭をとった。ここで彼が示した Unix オペレーティングシステムの技術は熱狂的な反応を巻き起こした。 Berkeley の学生および教授らは、Berkeley Standard Distribution と呼ばれるリベラルなライセンス合意のもとで Unix で利用するための追加ソフトウェア -- 特にネットワーク関連のコード -- を提供した。 BSD に貢献した人々の中には、後に卒業して Sun Microsystems を設立した Bill Joy もいた。 Sun は、AT&T および BSD からライセンスされた Unix をベースにした SunOS を走らせるサーバハードウェアを販売した。

開かれたアクセス、そして Unix に貢献する人々による大規模なコミュニティ -- 特に研究分野 -- によって、同システムは非常に人気となり、多くの顧客が Digital が販売する手頃な VAX ミニコンピュータ (the 32-bit descendant of the PDP-11) に、Digital 独自の VMS オペレーティングシステムの替わりに AT&TUnix をインストールして、BSD のネットワークコードともにシステムを走らせた。


Unix の足下で誕生したパーソナルコンピュータによる新市場

70 年代後半に家庭用マイクロコンピュータの市場が誕生したとき、各製造会社は一般的に独自のシンプルなシステムとユーティリティソフトウェアを自分たちで書いていた。 そうすることで、ワープロ表計算、そして他のプログラムによって、印刷やファイル管理といった核となる機能のほとんどが提供されていた。 CP/MApple DOS といったシンプルなディスクオペレーティングシステムは、基本的なドライブサポートを処理していただけだった。 1979 年に MicrosoftAT&T から Unix を、XENIX という名称のもとでマイクロコンピュータで販売するというライセンスを受けたものの、そのための市場は限られたものであることが明らかになった。

Apple は、SOS (Sophisticated Operating System) を元に、広範なデバイスドライバを利用できるようにした独自のオペレーティングシステムを開発し始めた。 SOS は、1980 年に Apple III のために設計されたものの、その不幸に見舞われたマシーンを救うことはできなかった。しかし、同システムはのちに ProDOS という名称の元で新しい Apple II モデルで利用されることになった。 SOS はまた、Lisa や Macintosh のためのシステムソフトウェアでのファイルシステムの開発にも影響を与えた。 これらシステムは、System Software という概念を単純な DOS よりも拡大して、印刷、画像描画、活字描画、そして従来は個々のアプリケーションそのものが行っていた他の機能を管理するグラフィカルなオペレーティング環境全体を含めるようになった。

MicrosoftXENIX をほとんど売り上げることができなかったものの、CP/M クローンを手に入れてそれを IBM が 1981 年に発表した PC と共に販売するようライセンスした後、DOS 市場へと打って出た。 Microsoft は、90 年代半ばまで IBM と共に DOS の開発を継続し、それを 2000 年の Windows ME まで同社の消費者向けシステムの基盤として販売し続けた。 1985 年 IBMMicrosoft は、シンプルな MS-DOS の代替として新しい OS/2 の開発に着手し、Microsoft はそれを受けて自社の XENIX 製品を SCO に売却した。その SCO は XENIX を 386 PC へと移植し、PC での Unix ビジネスを始めた。

既存の DOS PC 市場は、サーバあるいはネットワークの洗練という点ではほとんど何も貢献しなかった。 しかし、その問題は Novell によって解決されることになった。同社は 1983 年に DOS PC ユーザのためのファイル共有ソリューションとして、NetWare を導入した。 この NetWare は一般的に「Network Operating System」と呼ばれた。


Windows PC の登場

1990 年 Microsoft は、自社の IBM との OS/2 パートナーシップを放棄した。AppleMac ユーザ環境を DOS 上で複製し、その結果を Windows 3.0 という名称のもとで利益を上げるためにライセンスできることに気づいたからだった。 Microsoft は、1982 年から内部へのアクセス権限を持った初期の Mac 開発者だったこともあって、Apple のシステムのアーキテクチャに精通していた。 表面的には意図的に異なっていたものの、Windows のグラフィカル環境およびその描画エンジンの中心的なアーキテクチャは、Macintosh から直接写し取ったものだった。

Microsoft は続いて、Windows の基盤となっている MS-DOS を NT という名称の Unix ライクな機能を備えた独自の新しくモダンなオペレーティングシステムに置き換える計画を発表した。 Digital から OS 開発者のコアチームを雇用した後、Microsoft は 1993 年に自社の新しい DOS の代替として Windows NT を出荷した。ところが、その厳しいシステム要件が原因でコンシューマ用 PC ユーザに向けて売ることができなかった。 NT は、ワークステーションミニコンピュータ市場で AT&TUnix と競合関係にある Digital の VMS とコアの OS 機能を数多く共有していたのだった。

一方の AppleAT&T から Unix ライセンスを受け、80 年代後半までには A/UX という名前で販売していた。 Steve Jobs and 20 Years of Apple Servers (Steve JobsApple Server の 20 年) という記事の中で指摘されているように、Apple 経営陣が自社の Mac デスクトップを直接 Unix へと移植することを渋っていたため、Jobs は同社を離れて NeXT を立ち上げた。 その NeXTSTEP は、AT&T および BSD からライセンスを受けたコード基盤にしたコア OS 上の、高度な環境・オペレーティング環境として頭角を現し始めた。 その強力なコンビネーションによって、1990 年には WorldWideWeb などのサードパーティ・サーバ開発の先駆けともなった。


Unix にあるもの vs Unix にないもの

1990 年、NeXT が巨人の肩に乗って、自社の NeXTSTEP で証明されたコアオペレーティングシステムテクノロジとして Unix を提供している一方、Apple は依然として自社の古典的な Mac System Software で作業を続けていた。 このクラシカルな Mac System は、Unix とは異なり、特定のハードウェア上で走るようにハードコーディングされており、移植が困難で、維持も問題を孕むものになっていた。 Apple は、Star Trek プロジェクトでそのコードを PC へと移植する可能性を模索したが、Macアプリケーションソフトウェアを書き直す際に必要とされる努力が原因で放棄した。というのも、オペレーティングシステム同様、当時の Mac のアプリケーションは異なるハードウェア上で実行する可能性を一切考慮しない設計になっていたためだった。

Apple は、1995 年に Copland の失敗と共に計画がすべて崩壊するまで、なんとか自社の Mac ソフトウェアの維持しようとした。この過程は The Secrets of Pink, Taligent and Copland (ピンク、タンジェリンそして Copland の秘密) に詳しい。 さらに、社運をかけたサーバ製品を送り出す努力も行われたが、同社の Mac オペレーティングシステムの脆弱な基盤のために挫折した。 同社は実験的に MAS および MAE を販売した。これは、Sun および HP からの Unix ワークステーション上に Macユーザーインターフェースを搭載したものだった。 同社はまた、1992 年には Mac インターフェースを Mac ハードウェア上で動作する A/UX 3 にも搭載した (下図)。しかし、自らグラフィックデザイナやその他のクリエイティブユーザといったニッチな市場に的を絞ってきた経緯から、一度たりとも力強いサーバ販売へとつなげることはできなかった。

Jobs が Apple を離れた後に代わって Mac のプロダクトマネージャをしていた Jean-Louis Gassée は、1990 年に Apple を離れ BeBox を開発した。 それは、BeOS と呼ばれる完全に新しいオペレーティングシステムを実行した。 同 OS は、いくつか印象的な技術的特徴を持っていたものの、同じくその独特の設計によって制限を受けていた。コードの互換性を維持することなく、Unix からの原則に従って書かれていたのだ。 つまり、BeOSUnix でなされている近代的な作業を簡単には取り込めないことを意味していた。


Leopard Server


ページ 2 / 3: Unix の戦争; Unix の平和; Mac OS X Server の序曲; そして各 Mac OS X Server リリース (Mac OS X Server 10.2 JaguarMac OS X Panther Server 10.3、そして Mac OS X Tiger Server 10.4)。

次のページへ次のページへÂâç„ÅÆ„Éö„ɺ„Ç∏„Å´Ê઄Çã 

Mac OS X Server v10.5 Leopard 10クライアント

Mac OS X Server v10.5 Leopard 10クライアント