AppleInsider: Apple タブレットへの系譜: タブレットコンピューティングの歴史 [Page 2]

原文: The inside track on Apple's tablet: a history of tablet computing [Page 2]

By Prince McLean
Published: Friday, January 15, 2010 07:45 AM EST
タブレットの新しい波: 1989 〜 1994 年
キーボードとスクリーンをヒンジで合わせる典型的なデザインとしてノートブック型が主流になると、モバイル分野での先駆者たちは、スタイラスで操作するハンドヘルドタブレットバイスでもって、コンピューティングをさらに個人的なものにしようとし始めた。 GRiD は、キーボードを覆うようにフラットパネルディスプレイをヒンジで止めるというノートブック型コンセプトで特許を取得した。特許使用料から充分な資金を得ることができるようになった同社は、DOS 互換(GRiD の先駆的ノートブックは彼ら独自のプロプライエタリオペレーティングシステムを走らせていた)へと舵を切った。それは少なくとも、同社が Tandy に買収される 1988 年まで続いた。 その後は、グループを率いていたきら星たちの多くが、他の企業へと移籍していった。
そのなかには、1982 年に GRiD に加わり、後に研究部門のバイスプレジデントを務めた Jeff Hawkins もいた。 Hawkins は GRiD で Samsung とともに作業を進め、GRiDPAD と呼ばれる厚いテーブルサイズのデバイスを開発した。このデバイスは、DOS を実行し 640x400 という画面でスタイラスを利用するもので、バッテリー駆動時間は 3 時間だった。 その値段は 1989 年当時 2,370 ドル、今日の価値に換算すると 4,000 ドルだった。
Hawkins は、よりシンプルで廉価、そしてより実際的なデバイスにして、コンシューマーをターゲットとすれば大きな可能性があると見てとり、その「Zoomer」というコンセプトを Tandy に持ちかけた。というのも、同社はそのプロジェクトを単独で完成させることには興味がなかったからだった。 これがきっかけとなって彼は GRiD のソフトウェアをライセンスすることになり、1992 年には Palm Computing という名称のスピンオフ製品を開発した。ここで彼は Apple 時代の同僚 Donna Dubinsky と再び出会うことになる。 Palm は、Tandy とともに Zoomer を製作し、Casio に製造を委託した。
同じ時期 Go Corporation は、ハンドヘルドに特化してデザインされた初のオペレーティングシステムのひとつとして、PenPoint OS を送り出した。 PenPoint は、タブの付いたノートブックという比喩にもとづいてインターフェースを表示し、シンプルで簡単に使えることを目的にしていた。 Go は PenPoint をさまざまな企業にライセンスし、そのなかには GRiD も含まれていた。
AT&T は 1993 年に、短命に終わった EO Personal Communicator を発表したが、これも PenPoint OS で動いていた。 この 2 つのワイヤレスモデルは 2,000 〜 4,000 ドルほどだった。 しかし、同プロジェクトは資金を使い果たし、発表後わずか一年で破綻した。 オペレーティングシステムベンダーとしての Go に終止符が打たれたのは、主に、Pen Computing に対する MicrosoftWindows からの脅威によるものだった。Microsoft は、Windows PC にペン入力に適したソフトウェアを追加して、PC メーカーが独自に調査研究費をつぎ込むことなくタブレットデザインを送り出せるようにするだけで、ペンベースのタブレットPDA 市場を食い尽くすことを約束していたようなものだった。
Windows for Pen は結局のところ、熱狂的なユーザーを見つけられずに成功しなかったものの、Go Corporation 幹部が後に、Go が NDA のもとで Microsoft にデモンストレーションしたテクノロジーを特許侵害・盗用したとして Microsoft を訴えることにはなった。

Apple の Newton: 1993 〜 1998 年
EO と Zoomer が 1993 年に市場に出る頃、Apple は自社の Message Pad でタブレット市場に参入する計画の最終段階にあった。 そのデバイスは、Apple のコア能力をプラットフォーム開発およびソフトウェアインターフェースをモバイル分野へと応用するという、幾年にもわたる作業の結果だった。 Zoomer がコンシューマー向けにマーケティングされたのに対し、Apple の Newton プラットフォームはさまざまなものごとをする方法として幅広く浮かんでいた。 しかし、幅広くライセンスされた PenPoint と Windows for Pen とは異なり、Apple は Newton 単独で統合製品として送り出す計画だった。
80 年代後半の Knowledge Navigator のコンセプト周辺から、Apple は幾年にもわたって、次世代のコンピューティングプラットフォームをどう送り出していくかについて考えていたが、それは当時期待されていたペンを使ったタブレットバイスだった。 Apple は適切なモバイルプロセッサーを開発するために Acorn にかなりの額の投資をし、今日モバイル・組み込みアプリケーション用 CPU の大多数を送り出している ARM パートナーシップを生み出した。 同社はまた、完全にユニークなユーザーインタフェースと新しい開発ツールも開発する作業を進めた。 同社の CEO、John Sculley は Newton プロトタイプを 1992 年の Consumer Electronics Show(CES)に出品し、製品を説明するにあたって「パーソナルデジタルアシスタント」と銘打った。
Message Pad は、Zoomer とほぼ同じ 700 ドルという価格で 1993 年に市場に登場したが、Palm の Casio 製デバイスのいかなる展望も打ち砕くほどの、はるかに高度なテクノロジーを備えていた。 これを受けて Hawkins の会社は、Newton 用ソフトウェアの開発へと方向性を変えた。Palm は Graffiti 入力システムを生み出し、スタイラスによる手書き認識をより簡単に、そしてより正確なものにした。
90 年代前半のタブレットをめぐる状況のもうひとつの側面として、AT&T のワイヤレス EO が 2,000 〜 4000 ドル(今日の価値に換算すると 2,900 〜 5,800 ドル)という値札を付けていた。これがために、ほとんどのコンシューマーの手には届くようなものではなかった。 MicrosoftWindows for Pen もまた、勢いを獲得できないでいた。 Apple の Newton は、期待されていたよりも数が売れず、同社は、その新しいモバイルプラットフォームへの投資額を大胆に引き下げることになった。
Apple 内では Newton と平行して、Paradigm と呼ばれたタブレットコンピューティング関連のプロジェクトが 1990 年にスピンオフし、それが General Magic となった。 Apple が当初 Newton で思い描いていた戦略とは異なり、General Magic はそのオペレーティングシステムをさまざまなハードウェアーメーカーにたいして幅広くライセンスするよう意図されていた。 SonyAT&T、そして Motorola が同社内のパートナー・投資家となり、1994 年には各社が Magic Cap デバイスを市場に送り出した。 ところが Apple は General Magic をめぐる訴訟に巻き込まれ、苦境に喘いでいた同社は、1998 年までに、同テクノロジーMicrosoft にライセンスすることになった。

タブレットの第二波: 1997 〜 2002 年
90 年代前半のタブレット製品や「ペンコンピューティング」関連の苦い失望の連続から、消費者家電企業の間の、同じようなデバイスの投入を探る動きを鈍らせることになってしまった。 しかし、Hawkins はこのコンセプトを諦めてはいなかった。
彼は 1996 年にハンドヘルド PDA でもって三度目の挑戦をおこない、300 ドルの Palm Pilot を US Robotics と共同で投入した。 その頃 Apple はひじょうに深い苦境に立たされており、同社の Newton は Apple の独占プラットフォームであったこともあり、将来の見通しは芳しくなかった。 しかし、Pilot の革命的な価格設定はおおくの注意をひき、AppleMicrosoft の両社でタブレットへの関心が蘇る結果となった。
当時 Apple の CEO だった Gil Amelio は、基盤の弱まった同社を切り盛りしていくという厄介な仕事をまかされていたが、Steve Jobs の NeXT, Inc. を買収し、Newton OS をライセンスして、独立子会社としてモバイルプラットフォームをスピンオフさせた。 1997 年初頭のより速くなった Newton 2000 Message Pads と eMate デバイスの登場をうけて、Amelio は Newton Inc. を立ち上げたものの、実質的に Jobs よって権力の座から引きずりおろされ、わずか数週間後にはその新しい Newton スピンオフを再吸収することになっただけだった。
Jobs は Newton の息の根を止めることはせず、Newton プラットフォームは、独自企業としてスピンオフしたまま他のハードウェアライセンシーと共に協力しようとするのではなく、Apple 内でのほうが成功するチャンスがより高い、と語っていた。 Jobs は、その秋に披露された新しい PowerMac G3 の次に発表された Message Pad の二回目の製品リフレッシュを取り仕切ることで、Apple でスポットライトを再び浴びることになった。
Apple は、失敗の連鎖から抜け出る道を見つけたものの、それでも危機的状況のなかにあった。 Jobs は、新しい Newton モデルがたいした売上げを上げられないことが分かると、Apple はプロジェクトそのものをキャンセルし、今後のすべてのタブレット開発を中止し、Mac デスクトップとノートブックという Apple のコアに注力するとアナウンスした。それは 1998 年初頭のことだった。
Hawkin の Palm Pilot は、PDA への新たな関心を呼び起こしたものの、Newton が成功するあらゆる可能性をも潰すことになった。というのも、Pilot は熟して重く垂れ下がった果実を実質的にすべて食いつくしてしまい、Apple にはごくわずかな高度でハイエンド、そしてニッチな市場しか残されていなかったからだ。それは、これほどまでに複雑な製品を維持していくために必要な開発を支えるには充分ではなかった。 同時に Microsoft は、自社の 90 年代半ばの Windows CE「Handheld PC」コンセプトを、Palm Pilot のようなデバイスへと移行するための開発を進めており、当初はその新しい PDA を「Palm PC」と呼んでいた。しかし、PalmMicrosoft に対して訴訟を起こしたことから、独自の名前を生み出さざるを得なくなった。その名前が、 Pocket PC だった。
2000 年に IT バブルが崩壊すると、思い描かれていた PDA という高額なおもちゃ市場は、おおかた消え失せてしまい、PalmMicrosoft による PDA のライバル製品が、両社が計画していたよりもはるかに小さな市場で争うことになった。 Apple は、それより 2 年前に市場から撤退していたことに、安堵していたことに間違いない。

ページ 3 / 3: モバイルデバイスの興隆

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