AppleInsider: Steve Jobs: Apple タブレットは「私が手がけたなかでもっとも重要なもの」

原文: Steve Jobs: Apple tablet "the most important thing I've ever done"

By Prince McLean
Published: Tuesday, January 26, 2010 04:00 AM EST
Apple が水曜日に発表すると見られているタブレットサイズの製品をめぐっては、興奮にみちた期待がすでに野火のごとく燃え広がっているが、それに油を注ぐように、CEO の Steve Jobs が語った次の言葉が紹介された。「これは、私が手がけたなかでもっとも重要なものになる。」
この言葉は、ライバルである GoogleAndroid プラットフォームや「CrunchPad」と呼ばれるタブレットサイズの製品を立ち上げるという自身の夢を宣伝しつつも、AppleiPhone の批評家としてよく紹介される TechCrunch の Michael Arrington が Jobs の 言葉として伝えた ものだ。
「我々はこの言葉を直に聞いた訳ではない。が、我々はこれを複数回にわたって、完全に独立した消息筋から伝え聞いている」と Arrington は書いている。 「Apple の上級幹部や Jobs の友人らは、彼はこれまでになく今度の Apple Tablet に興奮している、と人々に話してまわっている。 これほどまでの実績をもつ男からの言葉だから、それだけでもかなりのことだ。」
加えて Arrington は、「もし Steve JobsiPhone はこのデバイスのためのウォームアップでしかないと考えていたとしたら、それで何ができるのか待ち遠しくてたまらない。 あたかも、我々の予測のレベルがじゅうぶんに高くなかったとでも言わんばかりだ。 今週の水曜日には、いろいろなことが明らかになるだろう」と書いている。

現実に潰されてしまった Arrington の CrunchPad
特に、2008 年に構想された 200 ドルのタブレット製品で彼自身が果たした役割を考えると、Arrington のコメントは興味深い。その製品を彼は、さまざまな製造企業に「オープンソース」したいと望んでいたのだ。 一年後 Arrington は「昨年ハードウェアに関して私が学んだことは、ものごとを実現してくれるようなパートナーが必要だ、ということだ」と書いている。 同時に彼は、ハードウェアプロトタイプのデザインのクレジットは「完全に」Fusion Garage にある、ともしている。
CrunchPad の製品コンセプトは、ソフトウェアを強制バンドルすることで期待できた広告奨励金をもってしても、300 〜 400 ドルほどにまで膨らみはじめていた。 昨年 10 月 Popular Mechanics は、Arrington の CrunchPad を、当時まだ完成さえしていなかったにもかかわらず「2009 年に購入できるもっとも際立ったガジェット、ツール、おもちゃのトップテン」のひとつとして表彰している。
その翌月 Arrington は、彼のハードウェアパートナーが独自にデバイスを製作し、Arrington の TechCrunch はただそれをプロモートするだけで、パートナーとしての経済的利益はなくす計画であることを示してきた、と明らかにした。 11 月の末までには Arrington は、CrunchPad プロジェクトは死に、替わりに、裁判を起こして Fusion Garage が独自に製品を開発することを停止させる、と述べた。
12 月になると Fusion Garage が、JooJoo との名称で 500 ドルのタブレットバイスを販売しするとアナウンスすると、Arrington は連邦裁判所に同社を提訴することで応えた。 レビューでは、その製品は印象的なハードウェアで「興味深い」と していた ものの、同時に、反応が遅くやや不具合が目立ち、ウェブの閲覧以外にできるオプションがない、ともしていた。
自ら新しく思い描いた構想から、実際にほんものの製品を開発し、現実的な価格帯を定め、そして開発者らの関心を惹き付けつつ、サードパーティアプリケーションのサポーを得て、新たなデバイスを成功裡にマーケティングすることが必要であることを体験した今、Arrington は、Apple の最新製品を目にせずとも、Jobs を讃える用意があるのだ。

テクノロジーの脈を探り当てる Jobs 指
Apple CEO は、人が何を購入するのか、そして、もしかすると今後数十年にわたって彼らが購入すべきものを判断するにあたって、驚くほど正確に見抜く力を持っている。 1970 年代、ひじょうに若かった Jobs は、Apple の共同設立者である Steve Wozniak と共同で、メインストリームのコンシューマーに売り込めるようなパーソナルコンピュータを組み立てていた。 彼は、あまり技術的知識のないユーザーにも、それを魅力的かつ取っ付きやすくすることを主張し、結果的に Apple はまたたく間にメジャーなコンピュータメーカーになっていった。
1980 年代、Jobs は Xerox PARC で開発されていた新しいテクノロジーに魅了されるあまり、なんとかして PARC の研究員を雇い、何百万ドルという Apple の資金を注ぎ込んで、市場でも販売できるようなグラフィカルインターフェースをもったパーソナルコンピュータを開発した。 Jobs は、誰もが使えるような真に直感的なコンピューティング環境を作りだそうと、初期の Macintosh エンジニアらを励まし、それがパーソナルコンピュータ革命となった。
1985 年 Jobs は、同社の新製品をビジネスユーザーのためにネットワーク化されたシステムとしてターゲットにすべく、Apple の幹部らに Macintosh Office という彼のコンセプトを売り込もうとしていた。 Apple のリーダーらがそのアイデアを拒否し、自ら創設した同社の経営から彼を外すと、Jobs は、Apple のエンジニア達の才能を手みやげに、NeXT でコンピューティングの新しい波をおこそうと同社を去った。
NeXT で Jobs は、大規模なエンジニアリングプロジェクトを統括し、Unix オペレーティングシステムの基盤を未来的なユーザーオペレーティング環境へと拡張し、デスクトップコンピューティングの開発者らにオブジェクト指向開発のような先進のコンセプトをもたらした。 NeXT は、Apple からは訴えられ、Microsoft からはすげなく扱われして、1996 年末に Apple が同社の革新的なオペレーティングシステムテクノロジーを求めて買収するまで、何年にもわたってく何の道を歩んだ。
その頃までには Apple の保守的な経営者は、成功裡に開発した自社同時のデスクトップオペレーティングシステムを台無しにするとともに、Newton プラットフォーム[和訳]スタイラスベースの[[タブレット]]コンピューティング[和訳] という究極的に失敗したコンセプトの後を追いかけして、自ら自社の経営を傾かせていた。

Apple への Jobs の復帰
Jobs は Apple のコントロール権を掌握した後、他のさまざまな展望のない努力やうんざりするほど混乱に満ちた背品モデルと共に Newton を廃止し、MacPowerBook からなる強固ながらもシンプルなラインアップを構築することに専念した。
Michael Dell が「[Apple] を完全に停止させて、株主に資金を返却」させてみせると軽蔑を込めて断言した時、Jobs は新たに オンラインでのウェブ注文システム を立ち上げ、Dell に十字スコープがあたったスライドで「我々の新製品と新店舗、そして新しい BTO システムで、君たちに追いついてやるぜ」と応えた。
Jobs は Compaq から Tim Cook を引き抜いて、Apple のオペレーションを任せると、幹部チームはまたたくまに傾いた会社を回復させた。 1999 年 Jobs は Micky Drexler を引き抜いて、おおくの専門家が Apple の小売努力は最終的に失敗することにかけていた当時、小売戦略 を構築する手助けを得た。
Jobs は同時に、Macromedia から Final Cut を買収したのを手始めに、他のさまざま企業や、後に Final Cut Studio や Logic Studio スイート、Aperture、そして iLife および iWork コンシューマースイートとなる元の製品の買収をおこなって ソフトウェアビジネス を組み上げることに着手した。 Apple はまた、Mac OS X の複数のレファレンスリリースをとおして、Jobs の NeXT から得たテクノロジーを急速に進化させた。

一連の人気のハードウェア製品
Jobs は 1998 年に、ライバルらがまたたく間に真似することになった革新的な半透明デザインを前面に、コンシューマーに優しく設定や利用が簡単なパーソナルコンピュータとして、USB を備えフロッピードライブのない初の普及型 PC である iMac を披露した。
Jobs は 2002 年には再発明したフラットパネル iMac を送り出し、かさばり環境にも優しくない CRT ディスプレイと決別した。 彼の会社は、リサイクル可能で毒性のない物質をより多く採用することで、社会的責任をはたすとともに、先進的なトレンドを追究すべく作業を進め、2009 年には iMac でその頂点のひとつを極めた。このモデルは、LED バックライトディスプレイ、アルミニウム筐体、そしてヒ素を含まないガラスを採用していた。
1999 年 Jobs は、10 年にわたる ノートブックテクノロジー への多大な投資を開始し、AirPort ワイヤレスネットワークを備えたコンシューマー向け iBook、それから 2001 年にはプロフェッショナル向けのセクシーな Titanium PowerBook として結実させた。 同じ年の後半、彼は iPod を発表した。これは、パーソナルメディアプレーヤーという製品カテゴリーに革命を起こし、圧倒的優位に立つことになった。
過去 10 年においてもっとも成功から遠く離れた Jobs の製品は、G4 Cube だった。小さなフォームファクターのパーソナルコンピューティングとして、高級市場向けの見事なアクリルブロックだったが、ちょうど IT バブルがはじけた頃に市場に登場することになってしまったのだった。 同モデルは、販売台数という面では成功ではなかったものの、卓越したデザインという側面での Apple の名声を揺るぎないものにし、ニューヨークからサンフランシスコにいたる現代美術館の収蔵品入りをはたした。 その技術的・デザイン的革新は、製品が廃止された後になっても、他の製品に応用された。 2005 年には AppleMac mini で同じ製品カテゴリーを再登場させた。
2006 年 Jobs は、ApplePower PC Mac プラットフォームを Intelx86 プロセッサーへと移行させた。非常に大規模な移行だったが、それを同社は、一見するとまったく苦もなく優雅に成し遂げてみせた。 それと同じ年、Jobs は「趣味」として Apple TV を導入した。以降、どのライバルもうまく立ち回ることができない、非常に競争が激しく、マーケティングも難しいなか、コンシューマーの間ではもっとも人気のメディアセットトップボックスのひとつとなっている。
その翌年の 2007 年 Jobs は、幅広い成功を収めた iPhone を披露した。それ以降、同期はスマートフォンがどうあるべきか、どう動作すべきかを定義づけている。 彼の会社はその後おなじ年の後半、iPhone のテクノロジーiPod touch へと移植し、Apple のポータブルメディアデバイスにおけるリーダー的ポジションを維持することになった。 それから一年後の 2008 年 Jobs は、サードパーティによるエコシステムと共に iPhone 2.0 を披露し、またたくまにモバイルアプリをダウンロードするもっとも人気の手法となった。
そのリリースのちょうど前、Jobs は MacBook Air を送り出した。同モデルは、既存の超軽量ノートブックカテゴリーを凌駕しつつも、フルサイズキーボードやディスプレイ、そして高速プロセッサーと統合された寿命の長いバッテリーを備えていた。 2008 年末までには、MacBook ノートブッックのラインアップ全体が、Air の革新的なアルミニウム湯にボディーデザインへと移行した。
コンシューマー市場におけるニーズやデザインの判断にたいする Jobs のキラ星のような記録によって、Apple は、かつて成功を収めていた MicrosoftSonyNokiaMotorolaPalm といったライバルらを出し抜くことができたのだ。 Jobs が新しいタブレットバイスを送り出そうとしている今、アナリストらは、さまざまなメーカーによる数多くの試みが失敗してきた市場カテゴリーにおいても、Apple はうまく製品を送り出していくことができるだろう、と楽観的な見通しを語っている。